sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

七つ違いの友達

七つ違いの友達がいる

わたしが福生に住んでいた頃、妹の知り合いのおじさん、そのおじさんは子どもの頃「マーチン」と呼ばれていた、なぜそれをわたしが知ってるのかというとそのおじさんに誘われて何かのお祭りに行ったときに「笑いヨガ」というのをやっているサークルの体験ブースに半ば無理やり参加することになったんだけど、その「笑いヨガ」の講師?の女性から「皆さん順番に何か意外なことを言ってください、それを聞いた皆さんは思いっきり笑い転げてください!」という無茶振りをされたときにそのおじさんが「僕は子どもの頃、マーチンって呼ばれてましたぁ!」と言っていたからだ。鬼気迫るかんじで無理やり笑う大人の集団に怯えきったせがれが「かえろう…」と泣き出したのでわたしと連れ合いは始まってすぐに部屋を出たのでその後あの場がどうなったのかはわからないけどたぶん帰りたかったのはせがれだけではなかったはずだ、でそのマーチンがやっているコンビニ、コンビニといってもチェーンのあれではなくて原型はおそらく酒屋、酒と一緒にタバコも売り、アイスも売り、お菓子や調味料や文房具なんかも売り、雑誌も置いてある、みたいな店で、ビールなんかが陳列されてるショーケースの上にジャズのレコードのジャケットが飾ってあって妹はその店のことを「ジャズコンビニ」と呼んでいた

ジャズコンビニの入っている建物自体がマーチンの持ち物だったから、コンビニの隣の借り手が見つからない空き店舗でイベントができるようになっていて、わたしたちはそこで小さな演奏会をひらいた。10年よりもっと前の話。演奏会のお知らせをツイッターで見たという若者たちが都内からやってきた。みんなバンドをやっているとのことだった。その10人くらいの集団の中にその子はいた。演奏したい人は楽器持って来てしてください、と告知していたから何組か演奏していた。京都の大学に通っている青年がお正月山形に帰省していて再び京都に戻る途中に寄り道して来た、といって何曲かギターの弾き語りで歌っていたけど福生まで来るのは寄り道というよりは回り道だ。会の最後のほうでマーチンがいきなり「お正月なんで!ジャンケン大会〜!」とか言い出してその場の全員でジャンケンをして、勝って最後に残った2人が賞品をもらえることになった。マーチンは酒屋だから賞品はなんかでかい日本酒かなんかだった。勝ったのは若い女性と男性だったんだけど、賞品を受け取った2人は「僕たち今日から付き合うことになったんですけどこれ2つともいただいちゃっていいんでしょうか?」と恐縮していて、2人は何年かあとに結婚したと聞いた

演奏会が終わったあと、なんとなく隣のジャズコンビニに数人が移動して、輪になって椅子に座ってしゃべっていたらマーチンの奥さんのジュンさんがおしるこをふるまってくれた。正月の5日頃だったのだ。せがれはそのとき4歳で、山形から京都に向かっている青年としるこをすすりながら何やらしゃべっているようだった。その中にもその子はいた。さっきからその子と書いてるのは七つ違いの友達のことで、わたしはそのとき38歳だったから彼女は31歳だったのだろう。「また遊びに来たいです」「また来ます!」と言って都内から来た若者たちは帰っていったけど、そのあとほんとにまた来たのはその子だけだった

今でもその子とはときどきメールのやり取りをしている。どちらからともなく、ふっとメールをするとそこからわーっと、しゃべっているみたいに会話が起こる。やり取りをしてるのは文字だけどあれは会話で、ほかの人にはするのを諦めるような話もその子にはする。その子の話を聞くのはいつもおもしろい。わたしたちの会話はたいてい謎解きみたいだ。ぼんやりとした、手がかりにも見えないようなものからあちこち跳んでいくうちにいろんなかたちが見えてくる。あまり言葉はたくさんいらないんじゃないかと思える。付き合いが長くなってもその子はわたしに敬語をつかう。ときどきフランクな言葉遣いがポロッと出る。どちらも彼女らしくてすてきだ。わたしをどう呼ぶか最初のうちあれこれ迷っていたけど「よしのさん」に落ち着いたらしい。その子はわたしと親しく付き合っていることを長いことおおっぴらに言わないようにしていたらしい。メールのやり取りが主だけどお互いの家に泊めたり泊めてもらったりもするし、こういう間柄を親しい友達と呼んで間違いはないと思うのだけど、彼女がわたしとやり取りしたことを周囲の人に話すと「え!よしのももこと仲いいの?!すごいじゃん」と言われたりする、それが「すごいとかそういうんじゃないから、いやなんです」と言っていた。しかし何年か前にはそんなことどうでもよくなった、と言ってブログなんかでもわたしの名前を書いてくれるようになった。彼女はつねにダイナミックに変化し続けているけどコアの部分ははじめて会ったときから変わっていない

七つ違いの友達は『ジドウケシゴム』を読んだあと、おもしろかったところをたくさんメールに書いて教えてくれた。「魔法みたいな本」だと言っていた。「げあ!」で泣いたと言っていた。「長く読んで、捉え方の変化もみてみたい」とも言っていた。「こんなことまで言葉にしてくれて、書いてくれてありがとうございます」と彼女に言われたとき、わたしは外側から求められる「伝わりやすさ」のほうに寄せずにしぬまでやりきろうと腹をくくった