◆5/27月曜の昼にソングライターズチームよしのももこ-よしのせい略してMomo-Seiが小さな会を開きます。場所は姫路と加古川と加西のはざまにあるあまかわ文庫、核になるのは自作の曲の演奏ですが、ほかにもよしのももこの書いたものを読んだり、離れ小島でのあれこれをしゃべったりします。お金持ちじゃなくても集まれるようにしましたので、気が向いたかたは是非いらしてください。途中で入るのも途中で帰られるのも自由です。開催まであと10日を切りましたので、ここからは縁があるかないかになってくるとおもいます。予約なしで大丈夫です。それでは、当日お会いできるのをたのしみにしています!
朝のつぶやきの移植プラスアルファ
そこにいる人はちゃんとぶつかるそこにいるから、前置きはいらない、反応がないのはそこにはいないから、それがいいとか悪いとかではない、エリアが今は違うだけ、いるかいないかは一発でわかるそこはごまかせない、ここしばらく、わたしはどこにもいないのかな、これは誰にも見えてないのかな、と心細く思うものがときたまあらわれて、それがすこし気にかかっていた、でも飲まれることはなかった、そこに人がいたから、返事があるってありがたい、それが「いい返事」だからとかじゃなくて、あるものがぶつかる、そのあたりまえのことがうれしい
ギターとうちの者
3週間後くらいに8年ぶりくらいで人間の前でふたりバンドの演奏をするので、(ここで↓)
連日うちの者と家で合奏をしているんだけど、彼がギターを弾く姿を見ているとほんとうにほれぼれする。たまに著名人のインタビューとかで「モテたくてギター(あるいはバンド)をはじめた」などと言っているのを見ることがあるけど、うちの者にとってのギターはたぶんそういうアクセサリー的なものじゃない。眼鏡とか、杖とかそういう道具、補助具、からだの一部としてはたらいてくれるもの、彼は言葉がぽんぽんと出たりしないがギターを使うことで彼が感知している何層にもなった豊かな《それ》がわたしたちにも感知できるかたちであらわれる。人がそういうふうに何かとかかわりあっているのを見るのはすばらしいことで、わたしはいつもしあわせな気持ちになる
今のこの世は人を萎縮させるものであふれているから、
さっき連れ合いと朝ごはんのあとのお茶をしながらしゃべっていて出てきた言葉だけど、わたしは誰かが萎縮している状況がいやだ。その人の「本体」の動きと人体の動きの間にズレがあるときに出るあの嫌な波、それがいちいち気になってしまう。人を萎縮させるものには寛容になれない。今のこの世は人を萎縮させるものであふれているから、そうでない場所があることをあらわそうとあれこれ書いたり歌ったりする。できるだけ中途半端なしかたで。わたし自身もそれをしようとするし、それをあらわそうとしている人のすることに触れるとぐっとくる。数は少ないからしんどいこともあるけどそれぞれの持ち場で持ちこたえていてほしい、といつも祈るような気持ちでいる
フシギダネと話せる友人
わたしのつくった歌や書いたものを、大切に思ってくれて、しかもそれを折に触れて言葉で伝えてくれる友人がいる。もしかするとわたしよりもそれらを大切に思っているのではないか。その友人の言葉を受け取ると、わたしはそうだった、こういう歌をつくったのだったな、こういうものを書いたのだったな、と思い出すことができる
数日前もその友人からメールが届いてしばらくやりとりをした。何週間か前にわたしは彼女の住む関東地方の山の小屋に宛てて新しくつくった読み物などの詰め合わせを送って、それは何か月か前に彼女が送ってくれた自家製のお味噌やらはちみつやらの詰め合わせと交換したもので、ここ10年くらいひとり暮らしをしていた彼女はさいきん何種類かの生き物たちとの新しい生活をはじめたのもあってたくさんの変化が内側から起こっていて、まだペースがつかめない部分もあるらしい、それで「やっと読める状態になった」らしい、読んで動いたものを書いて送ってくれた。詰め合わせにはラボで買ってきた山下さんの絵のポストカードも一緒に入れたのだけど「すきまがたくさんあってすてきな絵ですね、いつのまにか入り込ませてもらえるような」といって喜んでいたからわたしもうれしくなった
わたしはここのところすこしつかれていて、そのつかれは言葉で「説明」するのはむずかしい、だけど友人はそれこそすきまがあるから言葉が出てくるまでゆっくりやりとりができる。それで少しずつ湧いてくるものを拾っていったらわたしはただただ不思議なんだという言葉が出てきた。ただただ不思議なんだけど、それをフシギダネと言い合える人がいない。それがときどき少しだけさみしい。ゼロではないのはわかっているんだけど。時差やらなんやらで、
とメールに書いたことでそれは済んだ
友人はわたしが10年前くらいにつくった「みんなお留守」という曲の話を聞かせてくれた。いまから録音しようと思う
居合わせたどの人間にもそれぞれに演者と観客が宿るから誰ひとりとして受け身一辺倒ではいられないはずで、
お金を払うことで見返りがあるのが当然、という考えが行き渡ると、見返りの大きさは払った金額に比例するものだと考える人があらわれる。ツイッターに“推し”がどうのこうのみたいなことを書き込んでいる人が「こんな高いチケ代払ってるんだから○○してくれて当然」とか言い出す場面を見かけたことが何度もある
イベントや興行は「お客さん=チケット代を払って入場した人」を楽しませる・喜ばせる・満足させるもの?
わたしは自作曲を自室以外の場で演奏しはじめたハタチくらいの頃から、「舞台上の演者に楽しませて・喜ばせて・満足させてもらおう」としている人々の「前」で何かをすることがおもしろくない。そこには創造がない。「前」は絶えず入れ替わる。そこに居合わせた人のあやとりが場をつくる。あやとり。きみまろマナーでお客さんをいじるとか常連客が合いの手を入れるとかそういうあれのことではなく、
舞台にあがっている演者は演者で観客は観客なのだけどそれはつねにピシッと二分割されてるわけではなくて、その場の核あるいはスターターとなる演者がいるとしてその核の動きを触媒にして観客も動くし、居合わせたどの人間にもそれぞれに演者と観客が宿るから誰ひとりとして受け身一辺倒ではいられないはずで、
文にしてしまうと大げさすぎるようにも思うけどわたしは「お客さんの期待に応えなきゃ」というふうにやったことがないし、演者も観客もそう思わされるあれはトラップなので踏んではいけない、といろいろ工夫しながらやってきた
しかしこのことを誰かと話せたためしがあまりない