sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

居合わせたどの人間にもそれぞれに演者と観客が宿るから誰ひとりとして受け身一辺倒ではいられないはずで、

お金を払うことで見返りがあるのが当然、という考えが行き渡ると、見返りの大きさは払った金額に比例するものだと考える人があらわれる。ツイッターに“推し”がどうのこうのみたいなことを書き込んでいる人が「こんな高いチケ代払ってるんだから○○してくれて当然」とか言い出す場面を見かけたことが何度もある

イベントや興行は「お客さん=チケット代を払って入場した人」を楽しませる・喜ばせる・満足させるもの?

わたしは自作曲を自室以外の場で演奏しはじめたハタチくらいの頃から、「舞台上の演者に楽しませて・喜ばせて・満足させてもらおう」としている人々の「前」で何かをすることがおもしろくない。そこには創造がない。「前」は絶えず入れ替わる。そこに居合わせた人のあやとりが場をつくる。あやとり。きみまろマナーでお客さんをいじるとか常連客が合いの手を入れるとかそういうあれのことではなく、

舞台にあがっている演者は演者で観客は観客なのだけどそれはつねにピシッと二分割されてるわけではなくて、その場の核あるいはスターターとなる演者がいるとしてその核の動きを触媒にして観客も動くし、居合わせたどの人間にもそれぞれに演者と観客が宿るから誰ひとりとして受け身一辺倒ではいられないはずで、

文にしてしまうと大げさすぎるようにも思うけどわたしは「お客さんの期待に応えなきゃ」というふうにやったことがないし、演者も観客もそう思わされるあれはトラップなので踏んではいけない、といろいろ工夫しながらやってきた

しかしこのことを誰かと話せたためしがあまりない

コーインヤノゴトシ

今日は朝起きて歯磨いて韓国語して罠見回りして烏骨鶏の世話して草刈りしてごはん食べてのんびり連れ合いと話して合奏して作曲して原稿書いてごはん食べてまた原稿書いてたまご屋の業務連絡してたまごのチェックとパック詰めしてごはん作ってお風呂入ってごはん食べて韓国語してもうすぐ歯磨いて寝る。動きのチャンネル変えるときにいちいちツイートとかする。4月もまたあっという間に終わる

よしのももこ&よしのせいライブ

『ひらかれなかったよい集会4』

5月27日(月)11:30ごろ〜13:00ごろ
会場:あまかわ文庫
住所:兵庫県姫路市飾東町北野1261-2
(駐車場もあります)

つくった歌をふたりで歌い、
つくった本を朗読したり、
島での生活の話をしたりします
詳しくはチラシをごらんください

バスでの行き方↓

『わたしハ強ク・歌ウ』を読んだ3

ノートに紙にひとりで書く、誰に頼まれたわけでもないのに、そこに書かれなかったことは書いた人が「書かなかったこと」だったり「もともとなかったこと」だったりするけど、もともとなかったそれは別のノートでは「もともとなかったこと」なんかじゃなくて当たり前に書かれていたりする。書かれたものがいくつかあってはじめてそれがわかる。いくつかの書かれたものを見つけてそれらを編み合わせて書く人もいて、それは確かにすこし不純なことかもしれないけど「これ」は常にそういうふうにつくられているんだからそれはそのままの「これ」で、編み合わせて書く人の動きそのものを書こうとした人がいままでほとんどいなかったんじゃないか。

山下さんの新しい小説を読んでいく間、一つひとつの見たもの、したこと、聞こえる声がいちいちおもしろい、そこに《生きている》が立ちあがっていて、これこのままずっと終わってほしくないなあ、だけどのら、の帰還をずっと前から待ってたみたいにわたし(よしのももこ)のからだが、どのへんからなってたのかはわからないけど最後のページに来たときにはすでになってて、待ってたというかずっと気にしていた。そこに「ヨォ」って声がしたとき、わたしがそれをずっと気にしてたことがわかって、ぶぁーっとテープが巻き戻るみたいになって、止まった。あれはすごかった

どこを切り取って読んでもおもしろいのは本当におもしろい

『わたしハ強ク・歌ウ』を読んだ2

きのう山下さんの新作を読んで、わー、とだいぶ動いたけどなにからどう書けばいいのかわからなくて中途半端なツイートをいくつかしただけでかたまってしまって、それでひと晩寝て起きてすぐにスマホのメモ帳を立ち上げて書いたもの(のスクショ)をツイッターにアップした。あとになって読んだらだいぶ荒ぶってて、嘘は書いてないからいいのだけど、

きのう読んだときにコタツの上にあった要らないレシートをはさんでおいたページをもう一度ひらいて読んでみた、

 わたしたちがはっきり山を見たのは、その前からも書いていた通りその前にも見ていたのだけど、見ていたよねとたずねるならママしかいないけど今ママはもう死んでいない。今というのは今だ。書いたしりから過去となるやつ。いずれにしてもわたしに聞き取れるやり方では死んでいるママとは話せないし、というかもう「話さない書かない」のだろうし、死んでいないのでわたしには何一つかけらもわかりませんが! しかしそれは死ぬ少し前からもうそうで、その感じはどんな感じなのかとわたしは聞いて書こうとしたけどママから出て来たのは「わたしを見た、ような気がわたしはする」という肉体の動きだけで、それはあったことにさせてください、笑いもしなかったしうなずきもしなかった。だからわたしはいくらでも勝手に「ママは優しく、小さくしかし確かに微笑みながらわたしを見た」だとか「それは違うよネルというようにわたしを見て、かすかに笑ったような、気がした」だとか書けるけど、それは使い尽くされてきた生きたものが死にゆくものを利用してかけ続けてきた呪いで、わたしたちが読まれることを想定せず書いて来たものだけを頼りに書き起こそうとして来た「これ」に反する。ママはすでに言葉の外にいて、言葉の外というか、わたしの使う言葉の外、生きていて、ママもまだ生きていたけど、まだ元気で、自分の中でうごめく、外でもいいけどうごめく、言葉、元気で生きていて生まれたときからそれだけを頼りに自分を保持して来た、まだずれながらも一致していた言葉、というものからはっきりと離れていたから、ああなればもう言葉を人間は使わない。一番話したいときこそ人間は話さない。
山下澄人『わたしハ強ク・歌ウ』文藝 2024夏季号(河出書房新社)304ページ

父がしぬ間際、たまにしか見舞いに行かないわたしが枕元に座って父とふたりだけになったときがあった。正確には病院の部屋の中のほかのベッドには父とは別のじいさんが2、3人寝ていたけど、父が寝ているベッドを取り囲む四角の、そのとき父に与えられていたエリアの中にはそのとき父とわたししかいなかった。父はもうだいぶ前から言葉を使っていなかったし表情、と呼ばれている筋肉の動きもなかった。かといって父の、父のというかその本体?《それ》としかいいようのないもの、に、なにもなくなったわけじゃないのはわたしにもわかるので、こりゃうかつなことは言えないぞと緊張して、おとっつぁんあのさ、別に言うことないから黙ってりゃいいんだけどわたしこういうときどうすりゃいいのかわかんないや、ごめんね、みたいなことを言って、それでなぜかわたしは持っていた聖書を声に出してしばらく読んだ。別にわたしはキリスト教徒じゃないから布教したかったわけでもないし魂の平安をお祈りしたかったわけでもない。聖書を読むのがけっこうすきなだけ、タバコを吸うみたいなことだったかもしれない、手持ち無沙汰だったのだ。きのうレシートをはさんでおいたページを読んだとき、そのときのことが急にあらわれて、そうだ、わたしは呪いをかけたくなかったんだ、となった

こんなことをこんなふうに、小説になるまで持ちこたえてくれる人が今いるのはラッキーだ。活字にして家で読めるようにしてくれた人もありがとうございます

―――

ひと晩寝て起きてすぐにスマホのメモ帳を立ち上げて書いたもの(のスクショ)↓

なぜなら人間によって書かれたものはすべて、《それ》が書かれていることに気がついて喜ぶ人間が必ずいるから

よしのももこが書いたある程度まとまった長さのものはこれまでに2冊、本のかたちでリリースしています。『ジドウケシゴム』と『土民生活流動体書簡集』です。説明をケチるわけではないのですが、どちらも「ピンときた方は取扱店で入手してください」としか言いようがありません。なぜなら人間によって書かれたものはすべて、《それ》が書かれていることに気がついて喜ぶ人間が必ずいるからです。本の発売情報に気がつくということではなく、《これ》が書かれている!と気がつく人間が絶対にいる。それは1人かもしれないし100万人かもしれないけど例外はない。いっさいない

人間がなにかを書くとき、その書かれるものはその書き手「個人」の、「固有」の、「個別」のタンクからひねり出されるようなものではなく、どこかで誰かを通過したものがたまたまその書き手のところにあらわれたときに《それ》は起こる。起こってしまった以上、その書き手はそれまで《生きている》をやってきたすべて、何千年も何万年も継続してきたすべてを使ってそれを言葉で書こうとする

そうして書かれたものに《それ》が書かれている!と気づく人間は、書かれたものの一部だけであってもとにかく触れさえすれば必ずピンとくる。書き手に「才能」があるかとかはたぶん関係ない。「センス」だの「技術」だの、下手するとむしろ邪魔なこともあるかもしれない。だから本当はこの本には何が書かれていますとかどこがどうおもしろいんですよとか誰が推薦してますとかいう説明あれ全部いらなくて、別にあってもいいけれど、なくてもいい、んだけどそれ言っちゃうといろんな人の仕事がなくなって困っちゃうからまあ、わざわざ言わなくていい笑

ピンとくる、

としか言いようがないですよね、

『ジドウケシゴム』と『土民生活流動体書簡集』のことは冊子のヨベルのウェブサイトに置いてあります
冊子のヨベルweb

『新居格 随筆集 散歩者の言葉』を読みはじめた

 虹霓社の古屋さんから『新居格 随筆集 散歩者の言葉』を何週間も前に送っていただいたけれど、集中を要する用事が立て続けにあってなかなか読めなかった。今やっと読んでいる。表紙の歩く新居格のかたちが歩く賀川豊彦に似ている。ふたりは従兄弟同士。しかしこんなに似るもんかね?(これで終わりではなく、広告の下に続きます↓)

www.hanmoto.com

 聴いてくださいといって送られてきたカセットテープは1フレーズだけでも必ず聴くべきだし、読んでくださいといって送られてきた本は1行だけでも読むべきだ。ほかの人は知らない。しないのもその人の勝手だ。わたしはそうする。すぐにが無理ならすぐにじゃなくていいからそうする。しないと気持ち悪い。たった1か所にでも触れれば顔がわかる。それくらいわかれよ生きてるんだろ?もしもそれすらできないのだとしたらそれはわたしの生活がどこかおかしくなっているということだ。

 もともと外部的な一切を挙げて心のつなぎにならないものに取つて、誰にと云って共感共鳴を求めないものにとつて、即ち囚はれや拘束をもちたくないものにとつて、 その行き方に屈託はない。屈託はもたないけれど、自発的には自由であり得る。それがいいとも強ひて云はない。そんなに力んで肯定する程のことでもない。風が流れる場合に何も予めの宣言を要しはしない。風は何も人人の注意をそそるために大都会の舗石道を選んでは吹かない。誰もゐない寂しい平野と山の奥とにも鳴るのである。われわれの生活と芸術とは風のやうであつていい。広告ビラや大きな活字の広告を要しない。人目にふれなくてもいい。そんなことは全くどうでもいいことである。生活と芸術との糶売は社会活動の対象であるかのやうな場合だから、世評が何かしらの力をもつのであらう。さうして世評に適応するやうなトリックさへが人人を動かさうとするのだ。

 現在の世間がわれらの生活と芸術と感情と意思とを理解しやうが、しなからうが何でもない。理解されない寂しさをもつてそれを哀訴するのは卑劣、永久の無理解に埋もれたとてそれでいい。と云ふは実体の真はそれ自身の動きだけに意味がある。それは生きることの意識と同じやうな自意識であるからである。
(P18-19)

 本をひらいて、しょっぱなの随筆のシメからいきなりこれで、わーとなった。新居格、静かに、だけど今のわたしをわりとピンポイントで励ましにかかってくる。といっても励ましを押し付けてくる感じはない。勝手にこっちが励まされる。「糶売」という単語には初めてお目にかかったけど、これは競売と同じことをあらわしているらしい。

 まだ収録された随筆をふたつみっつ読んだだけで言うのもどうかと思うけど、この本はわたしがここに何か紹介めいたことを書こうが書くまいが一切関係のないところでちゃんと売れる本だと思う。なぜならとっかかりがいくつもある、この「とっかかり」は何ていうか、「ハッシュタグ」に近いもの、それに文の調子がガチャガチャしていない、旧仮名づかいだけどたぶん読みやすい、何よりこれまでの虹霓社の本に感じたハラハラ感のようなものがまったくない。これはわたしが大きなお世話をかますまでもなく、ほっといても応援される本だからちゃんと売れる。大型書店でベストセラー!とかじゃないにせよ、とにかくちゃんと売れるに違いないし実際ちゃんと売れてるみたいだ。よかった。

 だから、もしこれから虹霓社の本をどれか1冊だけ買ってみようという人がいたら、これより先に高木護『放浪の唄』を買って欲しい。あれだってちゃんと売れてるのかもしれないけど、あれはほっとけない笑。ほっとけないものをほっとかないのがたぶんわたしの役だろう。フトコロに余裕がある人はぜひ両方買ってください。
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