sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

からだを思い出す

2024年は人に向けて歌を歌うことになりそうで、すでに歌っていて、歌を歌うというのはとても怖いことなのでからだを思い出しておかないと危ないな、となっている。そう歌を歌うというのは危ないこと、人の心をわりとたやすく動かしてしまう、からだのどこかを忘れたまま歌うと、拡散すべきでないものを拡散してしまうことがある。すでにここにあるこれをないことにせず、これがどう動くかをからだで、声にはぜんぶ出てしまうからじたばたしないで、《生きている》をしているからだがあそぶ声を聴く、頭のたのしいは罠、目のたのしいは罠、ぶつかってもからだは本当はかまわない

今は今がいちばんたのしいよ

今年は島のイノシシが目に見えて減っている、山の中でもろもろ事足りてるから集落まで降りてこないだけでいることはいるのかもしれないけど、去年までと比べて見かける回数が減っているし、罠にかかる数も極端に少ない。わたしは去年から引き続きずっと土民生活流動体書簡集の二冊目を編んだりわたしのパートを書いたりしている。流動体からの「手紙」はもとから三冊分くらいあって、というか最初は一冊にまとめて出すつもりで編んでいたんだけどそしたら400ページ超えとかになってしまって、この「重さ」みたいなものは流動体に似つかわしくないなって思ったから三冊に分けた、すでに書かれているものを編むだけなんだから時間はそんなにかからないだろう、とか思うでしょ、そんなことはなくて書かれたものも生きて動いているのでそれを厳密にやろうとするとやっぱり時間はかかる。おまけに今年はソングライターズチームのほうにも意外なところから声がかかって、わたしも相棒のせいさんもそれぞれこの10年くらいの間ずっと誰に頼まれるでもなくつくり続けていた曲がたくさんあるのだけどそれらを録音することになってそっちも今やっている。ふたりとも早朝は罠の見回りに行っていて、せいさんはそのあと鶏たちの世話をしてから家に帰ってくる。わたしはそのあいだハコシリョ桶をかき混ぜたり烏骨鶏たちにごはんをあげたりゴミ出しをしたりなんだかんだしている。家にふたり揃ったところで手分けして朝食の支度をして、食べる。少しのんびりする。ここまででだいたい10時すぎくらいになっている。ここから13時くらいまでのあいだにレコーディングをする。原則として一日の中で録音のチャンスはここしかない。お互い、ぷらぷらしていた20代前半の頃なんかは寝食を忘れて部屋にこもってずーっと録音していたような人間だったけど、今はそれはできない。しない。今のわれわれの《生きている》はそんなふうじゃない。細切れの2時間とか3時間とかを毎日少しずつ積み重ねて曲をかたちにしていく。「細部にこだわる」をせずに済む。なんでそんなことしてるんですか? それはシュミなんですか? それともオシゴト? 聞かれても本当にわからない。ていうかそれ聞いてどうするの、いるかなその区別、しかしうーん、なんでだろうね? わたしとせいさんはこれができる、いろんな意味で、できる。できるからやる。ただそれだけ。今年はイノシシが少なくてこの家に「空いた時間」が増えていることも、せがれがこの家を無事に巣立って行ったことも、いくつもの依頼が舞い込んでいることも、すべては天地の采配ですべてはとてもよいめぐり合わせで、今は今がいちばんたのしいよ

てぶちゃんとクロちゃん

2年前の2月までうちで猫のかたちをとって生活していた黒白のハチワレの猫のことをわたしたちは「クロちゃん」と呼んでいたし今も呼んでいる。クロちゃんがクロちゃんと呼ばれはじめたときのことをわたしは知らないけど、白い手袋をはめているように見えるから「(てぶ)くろちゃん」となった

クロちゃん

さっき熊本のひよこ雑貨店のブログを読んでいたらクロちゃんによく似た猫さんの写真に添えられたキャプションに「てぶちゃん」と書いてあったのだけど、もしかしてそれは「てぶ(くろ)ちゃん」だったりするのだろうか、、、

たまご屋の店頭で接客にいそしむクロちゃんとむぎちゃん

カ・レ・エ・ダ!ってやろう

昨日の昼、わたしとソングライターズチームを組んでいるせいさんが急に「共作しよう、1曲ぐらい、」と言いながらわたしのいる部屋に入ってきてわたしはいいよこの前パッとツイートしてすぐ消した言葉から動いて書いた歌詞あるからそれにせいさんが曲つけはじめたら共作じゃんというようなことをたぶんもっと手短に言ってスマートフォンにメモしてあったその歌詞をせいさんのほうでも見られるようにしたらそれから30分ぐらいギターを弾きながら何だかんだしててわたしはその間洗濯物を干していた、「ちょっと聴いて」と言ってせいさんがつくったものを歌い出したので聴いた、そしたらさ、転調するとこ、ここカ・レ・エ・ダ!ってやろうよ、カ・レ・エ・ダ!がいいよ、と思いつきで言ったらやってみることになりめちゃめちゃ良くって採用となり。もう一度頭から歌って録ったものを聴いてふたりで顔見合わせてげらげら笑った

「話す会」を聞いていて動いたことメモ

老人が、とか、
大きな、人間、

とかいうふうに見られている人間がいるとき、それら自身の「わたし」はたいてい年寄りのつもりでも大きいつもりでもなかったりして、見られるも見るも同時にどっちもあって、ぽんぽん跳ぶ、そういうふうにできている、それをそのまま書こうとしている小説を読むときに、

「ちょっと待ってください、今ちゃんと整理しますから」

といって一時停止はできない、読んでる人が読むのを止めることはできるけど書かれているものは止まらない、から走る馬に振り落とされないように必死についていくしかない、夢もそうだし《生きている》もそう、走る馬に振り落とされないように必死についていくしかない、ぜんぶ真に受けてぽんぽん跳ぶのがげらげらおもしろい

そうじゃなかったら小説なんか読まなくていい

たぶんだけど、雑にてきとーに読むの禁止!読むときには立ち止まって「かんけい」を整理してちゃんと読解しなさい!ってきょういくの過程で刷り込まれていて、小説を読むときにまでその刷り込みを持ち込むのが当たり前みたいになってる

【移植】「それが悪いことで嫌なことだとわかっているはずの⼈間が、なぜ誰かを戦場送りにしてしまうのか」の⽅に興味がある

※3年前に書いたものを思い出したので移植しました

2021年8月7日 09:51


「重要な選挙なのに投票に行かない奴は、政治や暮らしのことを考えていない無責任な奴だ。投票を義務化して違反者には罰則をもうけるべき」という発想は「重要な戦争なのに兵役に行かない者は非国民だ」という発想とどこが違うのか。

というようなことを以前SNSで書いたことがある。それにコメントがついた。

コメント:
私は選挙に行けと言われるより戦争に行けと言われる方がはるかに嫌です。

コメントを書き込んだのは面識のない方だったけれど、「ああそうなんですね」で済ませるわけにも行かず(済ませてもよかったのだと今は思う)とりあえず思った通りのことを返信した。

返信:
わたしは選挙に行くのと戦争に行くのを比べたら戦争に行く方が嫌ですが、選挙に行けって言われるのも戦争に行けって言われるのも同じだけ嫌です。

この「戦争に行くほうが嫌」はどうしても比較するんだとしたら、っていうだけのことだ。家から遠いとか、帰りたいときに帰ってこられないとか、集団行動を強いられるとかそういう点での「嫌」だ。そのせいで誰かが命を落としたりする、荒っぽくていやったらしいイベントだという点では戦争も選挙も同じようにわたしからは見えている。コメントを書き込んだ方はさらに、

コメント:
あなたが言っていることはただ「人から何かをしろと言われるのが嫌」だというだけのことであって、戦争と選挙を同列に並べてはいけないのでは?

というようなことを返してきた。 もしこれが、この方が独り言として書いていることならばわたしは何とも思わないし、へーそういう考えの人もいるんだな、で終わる話である。しかしこのときのコレは独り言ではなく、わたしの書いたことに対する明確なツッコミとして書かれていたので、多少は考えざるを得なくなってしまった。

「戦争と選挙を並べてはいけない」

…本当に? それはただ単に「民主主義は良いことで、選挙はその根幹をなす大事なこと」だし「戦争は決してあってはならない悪いこと」だと幼少時から繰り返し教え込まれてきたのをそのままオウム返しにしているだけなんじゃないか。オウム返しは誰にでもできる。ひんしゅくを買う心配もないし、それどころか、正しい考えですねとほめてもらえる。オウム返しすることを疑ったりすれば「逆張り」だと揶揄される。

コメントを書いた方がわたしよりも年上だというのにも少し驚いてしまった。

善/悪や好き/嫌いを判断基準にするのはあまりにも危なっかしくて採用するのをためらってしまう。例えば「この戦争は、世界の平和をおびやかす極悪人どもを撲滅するための大事な大事な戦争です!」という風に境界線の位置が書き換えられてしまうだけでコロッと風向きが変わり、今までとは正反対の方向にものすごい勢いで流れ出し、「そうだそうだ! その通り!」と喝采を送る人の数が増え始めるとそこからは雪だるま式になって、ちょっとやそっとの力ではもう止められなくなってしまうだろうなーという想像が働いてしまう。

(そのことが今回の感染症の騒動でえげつないくらいに見える化されたとわたしは感じている)

「戦争は悪いことだから無くさなければならない!」と唱えていれば兵士として戦地に赴くことを強制される人がこの世からいなくなるような、そんな単純なしくみにはなっていない。「戦争は悪いことだ」の反対が「戦争は良いことだ」なわけではない、というのがポイントで、「それが悪いことで嫌なことだとわかっているはずの人間が、なぜ誰かを戦場送りにしてしまうのか」という仕組みとか背景に関心を持って、一つひとつ分解して組み直していくようなことしかわたしにはできない。それはからまった刺繍糸をほどくのと同じくらい面倒くさくて時間のかかることではある。

「越えてはいけない一線」というのが、石灰か何かで実線として分かりやすく引かれてるわけではないところが怖いところで、そのグラデーションの怖さを知っている人は「これは悪いことだから悪いんです!」みたいな言い方はたぶんできない。

陽文庫のインスタグラムを読んで動いたこと

姫路に陽文庫という古本屋さんがある、らしい、わたしはまだ行ったことがない、というか「ここが陽文庫」という場所がまだひらかれてないそうで、あさのは商店という雑貨屋さんなどの一角に本を並べて売っているらしい、あきらぶんこと読むらしい、その陽文庫の店主さんがこの間の「ひらかれなかったよい集会 in あまかわ文庫」の写真をインスタグラムに投稿して、いろいろ書いてくれているのでまずはとにかくそれを読んでもらいたい、(ここをクリックするとインスタグラムの記事に飛びます

陽文庫は『ジドウケシゴム』と『土民生活流動体書簡集』を仕入れて売ってくれている、それもあちらの方から「仕入れたい」と声を上げてくれた、そうやって声を上げてくれたお店はこの世に数軒しかまだない、しかもその仕入れっぷりが他の店とはあきらかに違っていた、桁が違う、ご自身でも「張り切り方が間違ってるかもしれませんがたくさん売りたい」とメールに書いてらしたのだけど確かに間違ってるか間違ってないかで言えば間違ってるんだろうたぶん、なんせ著名人が書いてるのでもないし特に話題になってもいない、あらかじめ売れる見込みがあるわけではないインディーズ出版物を住所不定の古本屋さんが売ろうっていうんだからバクチもいいとこだ

わたしはうれしかった

いつかお店(らしき一角)に行けたらいいなとおもっていた

間違ってるかもしれなくても動いてくれてありがとうって言いたかった

集会の日が近くなったある日、あまかわ文庫の店主さんからメールが来て、「当日は陽文庫さんにも手伝ってもらおうかと思っています」と書いてあった。せっかくの機会なので声をかけたと書いてあった。

えーありがとう言えるじゃん!!

さらに「集会のときは陽文庫さんの在庫を販売してもらおうと思うのですがよろしいでしょうか?」とも書いてあった。あまかわ文庫でも『土民生活流動体書簡集』を仕入れて売ってくれているのに、自分とこの在庫は動いているから大丈夫なんで、ということらしかった。わたしもそうするのがいいと思ったから『ジドウケシゴム』はヨベルの在庫を、『土民生活流動体書簡集』は陽文庫の在庫を売ることになった。お客さんは別にどっちから買ってるとか意識することなく買っていく

姫路のあっちとこっちで、それぞれのかたちで古本屋をひらいているおふたりに会えたほうの《生きている》をわたしはやることになって、こういう小さな「たまたま」に背中を押されたりしながらこれからも書いたり編んだり歌ったりしつづける。そういうふうにできている