sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

『新居格 随筆集 散歩者の言葉』を読みはじめた

 虹霓社の古屋さんから『新居格 随筆集 散歩者の言葉』を何週間も前に送っていただいたけれど、集中を要する用事が立て続けにあってなかなか読めなかった。今やっと読んでいる。表紙の歩く新居格のかたちが歩く賀川豊彦に似ている。ふたりは従兄弟同士。しかしこんなに似るもんかね?(これで終わりではなく、広告の下に続きます↓)

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 聴いてくださいといって送られてきたカセットテープは1フレーズだけでも必ず聴くべきだし、読んでくださいといって送られてきた本は1行だけでも読むべきだ。ほかの人は知らない。しないのもその人の勝手だ。わたしはそうする。すぐにが無理ならすぐにじゃなくていいからそうする。しないと気持ち悪い。たった1か所にでも触れれば顔がわかる。それくらいわかれよ生きてるんだろ?もしもそれすらできないのだとしたらそれはわたしの生活がどこかおかしくなっているということだ。

 もともと外部的な一切を挙げて心のつなぎにならないものに取つて、誰にと云って共感共鳴を求めないものにとつて、即ち囚はれや拘束をもちたくないものにとつて、 その行き方に屈託はない。屈託はもたないけれど、自発的には自由であり得る。それがいいとも強ひて云はない。そんなに力んで肯定する程のことでもない。風が流れる場合に何も予めの宣言を要しはしない。風は何も人人の注意をそそるために大都会の舗石道を選んでは吹かない。誰もゐない寂しい平野と山の奥とにも鳴るのである。われわれの生活と芸術とは風のやうであつていい。広告ビラや大きな活字の広告を要しない。人目にふれなくてもいい。そんなことは全くどうでもいいことである。生活と芸術との糶売は社会活動の対象であるかのやうな場合だから、世評が何かしらの力をもつのであらう。さうして世評に適応するやうなトリックさへが人人を動かさうとするのだ。

 現在の世間がわれらの生活と芸術と感情と意思とを理解しやうが、しなからうが何でもない。理解されない寂しさをもつてそれを哀訴するのは卑劣、永久の無理解に埋もれたとてそれでいい。と云ふは実体の真はそれ自身の動きだけに意味がある。それは生きることの意識と同じやうな自意識であるからである。
(P18-19)

 本をひらいて、しょっぱなの随筆のシメからいきなりこれで、わーとなった。新居格、静かに、だけど今のわたしをわりとピンポイントで励ましにかかってくる。といっても励ましを押し付けてくる感じはない。勝手にこっちが励まされる。「糶売」という単語には初めてお目にかかったけど、これは競売と同じことをあらわしているらしい。

 まだ収録された随筆をふたつみっつ読んだだけで言うのもどうかと思うけど、この本はわたしがここに何か紹介めいたことを書こうが書くまいが一切関係のないところでちゃんと売れる本だと思う。なぜならとっかかりがいくつもある、この「とっかかり」は何ていうか、「ハッシュタグ」に近いもの、それに文の調子がガチャガチャしていない、旧仮名づかいだけどたぶん読みやすい、何よりこれまでの虹霓社の本に感じたハラハラ感のようなものがまったくない。これはわたしが大きなお世話をかますまでもなく、ほっといても応援される本だからちゃんと売れる。大型書店でベストセラー!とかじゃないにせよ、とにかくちゃんと売れるに違いないし実際ちゃんと売れてるみたいだ。よかった。

 だから、もしこれから虹霓社の本をどれか1冊だけ買ってみようという人がいたら、これより先に高木護『放浪の唄』を買って欲しい。あれだってちゃんと売れてるのかもしれないけど、あれはほっとけない笑。ほっとけないものをほっとかないのがたぶんわたしの役だろう。フトコロに余裕がある人はぜひ両方買ってください。
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