sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

『わたしハ強ク・歌ウ』を読んだ2

きのう山下さんの新作を読んで、わー、とだいぶ動いたけどなにからどう書けばいいのかわからなくて中途半端なツイートをいくつかしただけでかたまってしまって、それでひと晩寝て起きてすぐにスマホのメモ帳を立ち上げて書いたもの(のスクショ)をツイッターにアップした。あとになって読んだらだいぶ荒ぶってて、嘘は書いてないからいいのだけど、

きのう読んだときにコタツの上にあった要らないレシートをはさんでおいたページをもう一度ひらいて読んでみた、

 わたしたちがはっきり山を見たのは、その前からも書いていた通りその前にも見ていたのだけど、見ていたよねとたずねるならママしかいないけど今ママはもう死んでいない。今というのは今だ。書いたしりから過去となるやつ。いずれにしてもわたしに聞き取れるやり方では死んでいるママとは話せないし、というかもう「話さない書かない」のだろうし、死んでいないのでわたしには何一つかけらもわかりませんが! しかしそれは死ぬ少し前からもうそうで、その感じはどんな感じなのかとわたしは聞いて書こうとしたけどママから出て来たのは「わたしを見た、ような気がわたしはする」という肉体の動きだけで、それはあったことにさせてください、笑いもしなかったしうなずきもしなかった。だからわたしはいくらでも勝手に「ママは優しく、小さくしかし確かに微笑みながらわたしを見た」だとか「それは違うよネルというようにわたしを見て、かすかに笑ったような、気がした」だとか書けるけど、それは使い尽くされてきた生きたものが死にゆくものを利用してかけ続けてきた呪いで、わたしたちが読まれることを想定せず書いて来たものだけを頼りに書き起こそうとして来た「これ」に反する。ママはすでに言葉の外にいて、言葉の外というか、わたしの使う言葉の外、生きていて、ママもまだ生きていたけど、まだ元気で、自分の中でうごめく、外でもいいけどうごめく、言葉、元気で生きていて生まれたときからそれだけを頼りに自分を保持して来た、まだずれながらも一致していた言葉、というものからはっきりと離れていたから、ああなればもう言葉を人間は使わない。一番話したいときこそ人間は話さない。
山下澄人『わたしハ強ク・歌ウ』文藝 2024夏季号(河出書房新社)304ページ

父がしぬ間際、たまにしか見舞いに行かないわたしが枕元に座って父とふたりだけになったときがあった。正確には病院の部屋の中のほかのベッドには父とは別のじいさんが2、3人寝ていたけど、父が寝ているベッドを取り囲む四角の、そのとき父に与えられていたエリアの中にはそのとき父とわたししかいなかった。父はもうだいぶ前から言葉を使っていなかったし表情、と呼ばれている筋肉の動きもなかった。かといって父の、父のというかその本体?《それ》としかいいようのないもの、に、なにもなくなったわけじゃないのはわたしにもわかるので、こりゃうかつなことは言えないぞと緊張して、おとっつぁんあのさ、別に言うことないから黙ってりゃいいんだけどわたしこういうときどうすりゃいいのかわかんないや、ごめんね、みたいなことを言って、それでなぜかわたしは持っていた聖書を声に出してしばらく読んだ。別にわたしはキリスト教徒じゃないから布教したかったわけでもないし魂の平安をお祈りしたかったわけでもない。聖書を読むのがけっこうすきなだけ、タバコを吸うみたいなことだったかもしれない、手持ち無沙汰だったのだ。きのうレシートをはさんでおいたページを読んだとき、そのときのことが急にあらわれて、そうだ、わたしは呪いをかけたくなかったんだ、となった

こんなことをこんなふうに、小説になるまで持ちこたえてくれる人が今いるのはラッキーだ。活字にして家で読めるようにしてくれた人もありがとうございます

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ひと晩寝て起きてすぐにスマホのメモ帳を立ち上げて書いたもの(のスクショ)↓