sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

『ジドウケシゴム』を増刷しました

「移動する民」と呼ばれる者たちと、その者たちをじっと見ている何者か、寄せ集めの《生きている》が紡ぐささやかな物語
第3刷が刷りあがりました。といっても、リリース直後に仕入れてくれたお店でまだ売れ残っている第1刷も存在するかもしれないのですが。とにかく、これまで手に取ってお読みくださった方々ありがとうございます。また忘れた頃にでも、ときどきあの寄せ集めの者たちのところを訪ねてみてください。これから出会う方はよろしくお願いします。取り扱い店などは下記のwebサイトにまとめてあります。
sasshinoyoberu.tamakkosan.com

『ジドウケシゴム』が家族と友達以外の人の手にはじめて渡ったのが去年の1月27日だったから

『ジドウケシゴム』が家族と友達以外の人の手にはじめて渡ったのが去年の1月27日だったから気がつけばもう1年経っていた。あの日は横浜の、綱島駅からほど遠い川べりにある友達の店で朗読即売会と称した会をひらいてそこに集まってくれたのが夕方の部8人夜の部8人、両方ともいた人もいるから全部で16人ではない、とにかくそのくらいの人たちができたての冊子を買ってくれた。あれが最初。一応ここからはもうホップしないかな、というところまで行ってからまだ1か月半くらいしか経っていない、この世で5人くらいしか読んだことのない小説をあの場にいた人たちはみんなためらいなく買って、わたしがパッとひらいたページを読むのをめいめい自分の姿勢と仕方で聞いていた。読むのに飽きたところで居合わせた人にわたしが質問したりしてひとりずつ話すのをみんなで聞いたりもした。緊張もしたけどたのしかったな。わたしはアカペラでちょっと歌ったりもした。次の日は表参道まで行って山下澄人さんの朗読会に参加した。山下さんは脚をがたがたいわせながら『君たちはしかし再び来い』の何か所かを読んでいた。演劇の人は息の使いかたが違うなーとか思いながら見たり聞いたりした。わたしは前の日にぶっつけで朗読をしていたので、朗読らしい朗読を聞いたこともないままヤマ勘でやったのでやってみてわかったんだけど小説を声に出して読むっていうあれはしっかり肺を使わないとかんたんに息があがるから見ているよりもずっとたいへんなので山下さんはすごいなやっぱちゃんと訓練した人なんだなと思った。朗読会の帰りに新宿駅の改札で後ろから知らない人に足の裏を蹴られた。最初は当たっちゃったんだな、人たくさんいるしな、とか思ってたんだけど一回では終わらなくて何度か蹴られて故意だとわかって、わたしはもう何年もそういうピリピリした悪意からすっかり遠ざかったところで生活していたもんだからとてもびっくりしてしまって反射的に振り返って蹴った(であろう)人の顔を見てしまった。たぶんそのときのわたしの顔は「ものすごくびっくりした顔」になっていたと思う。蹴った(であろう)人はブツブツ何か言っていたけどその人とわたしの関わり合いはすぐに途切れた。関係なさ過ぎたのだろう。あれは人と人のやり取りじゃなかった。東京から帰ってきて、少しずつ『ジドウケシゴム』を仕入れてくれる店や人を探しはじめた、といっても探したというほど探したわけじゃなくてたまたま出かけた先で店主さんに現物を手渡してパラッとめくってもらって仕入れたくなったら仕入れてもらう、みたいなことしかしていないんだけどそれでも10軒くらい買い切りで仕入れてくれたお店や人と会うことができた。最初の1冊を売ってからひと月半くらい経ったときにツイッターにこう書いている。

その1年が経ってみると最初に刷った分はとっくにわたしの手元からなくなっていて、来週には第3刷が印刷所から届くことになっている。飛ぶように売れることも評判を呼ぶこともなく、でもずっと動いている。目的にしないというだけで、売れなくてもいいとかではない。さすがに印刷代の元くらいは取りたい。取れなかったら取れなかったでそのとき考える。ほっといたらずっと動き続けて際限がなくなるものを、際限のないところはそのまま際限なくしておくとしてどこかで一度無理にでもぶった切ってその切断面をひとまず何かのかたちにしてひとの目に晒しておきたい。なんでそんなことがしたいのかは自分でもよくわからない。わからないままやっている。
『ジドウケシゴム』が買える可能性があるお店リストこちら

「売る快感」「並べる快感」は誰のものか

わたしは日々商売をしているから実感をともなって書くのだけど、といってもわれわれが商っているのは鶏卵のみだけど、「ものを売る才」って人それぞれで、まったく同じ条件下で同じものを売ってもたくさん売れる人とあまり売れない人が出てくる。個人の「能力」というよりは気質?体質?あとは時代やしくみとの相性とかいろんなものの組み合わせであらわれる「才」の模様をたんに「向き不向き」とかで片付けてしまうのもなんか違う気がする。いっぱい売ったからすごいとかでもない。

少し前に「売る快感」というキーワードを見かけてそこから動いたものをブログに書こうとして、そのキーワードは高松のYOMSという古本屋さんのツイートから拾ったものだったんだけどツリーになっていた該当のツイート群がものすごくバズり散らかしているのに気付いて書かずにおいといた、ということがあった。

「売る快感」「並べる快感」っていうのは確実にあって、わたしが小学生のころ学校の授業でいちばん、いちばんというか唯一かもしれない楽しかった授業は商店のシミュレーションをした回だった。たぶん社会科、もしかすると家庭科?もう忘れたけど、その日その時限だけの特別な実習、昼休みの掃除のときみたいに机も椅子も後ろに下げて、個人でだったか班ごとでだったかこれも忘れたけどそれぞれが店を営んでるという設定で店舗に見立てた机の上に商品を並べ、値札をつけ、教室内で手作り貨幣を流通させ、買い物をしたり接客をしたりし合ったあの授業は本当に楽しくて一瞬で終わりのチャイムが鳴ってしまって、その授業はその日限りだったからとてもがっかりしたのを覚えている。何が楽しいって「売りたいものを並べること」。あんなにおもしろいことなんだってあのとき初めて知った。貨幣が流通して回っていくのもおもしろかった。

わたしがいま毎日売ってる卵なんかは、生活必需品と呼ばれるようなどちらかというと切羽詰まった部類の「売ってくれ!」だから売る才があまりなくても置いとけば割と売れる。それが一般的に「おいしい」ものならなおさら。でも、たとえば小説が収録されている本とかはそれとは少し違っていて、たぶん売る人の売る才が売れ行きを大きく左右する。だけど本が売れなければ「書いたやつに才能が無くて本がつまらないからだ」とか言われたりする。著者って不憫ですね(笑)別にわたしが言われたわけじゃないからこれはまあ妄想ではあるんだけど、でも「おもしろい本だから売れる」っていう神話を信じてる人も多いんじゃないか。「おもしろい」って何だろう。世間の/消費者の/受け手のニーズとかをきちんと分析・把握できて、「おもしろい」ものを書いて「おもしろさ」をしっかり示せる書き手、売り手の売る才を刺激できたり、売る快感にまで目配りできる書き手、確かにそれも才のひとつで、だけどぜんぜんそうじゃない書き手もいるからおもしろい。

これ以上書いてもつまらないからやめにしよう。

「売る快感」「並べる快感」は誰のものかって考えたら著者のものじゃないことは明白で、こんなぱっとしないご時世で何の成り行きかわからないけど率先して「売ること」をやってる人たちはせっかくなんだからその快感を遠慮なく、貪欲に、まるごと味わうのがいいと思う。どんどんやっちゃえ。そういう場にわたしの書いた本もちょこっと居合わせていたらとてもうれしいし、実際にもうそうなってる。

特定のことを勉強しすぎて詳しくなりすぎてその話が「おなじみのはなし」になってしまった人

特定のことを勉強しすぎて詳しくなりすぎてその話が「おなじみのはなし」になってしまった人は、自分よりも詳しくない誰かにとてもシンプルな質問をされても何を聞かれているのかわからなくて専門用語を駆使したトンチンカンな解説をしたりすることがある。質問したほうは長々と解説を聞かされて、で??おれの質問どこいった??となるような。さっきもインターネットで調べ物をしていてそういうやり取りに出くわした。15年前の記事だったけど。なぜそんなことが起きるのかというと特定のことを勉強しすぎて詳しくなりすぎた人は「おなじみのはなし」の前提を疑う回路がOFFになっていたりするからで、そもそもその前提のそれってどこから来たんですかね?みたいな質問を投げ込まれると秒でバグるんだとおもう。詳しけりゃいいってもんでもないね

ぶつぶつつぶやく族

この人おもしろいなとなんとなく動向を追っている球技のプレイヤーがいるのだけどその人はけっこう独り言をつぶやいていて、いて、といってもこの目で見たわけでもこの耳で聞いたわけでもなく動画で見た聞いただけ、でもわりとひとりでぶつぶつ言っている。あれすごいわかるんだよなあの感じ。わたしも独り言がたぶん多くて、あれはよし、言うぞ、といって言うのではなくて気がついたときにはもう音になって出ている。助走なしでいきなり飛んでいる。だから言ったわたしがびっくりすることもある。あの人もたびたびびっくりしているんじゃないかな。しらないけど。ぶつぶつつぶやく族

連ツイ移植:ここではこれは革命

朝イチ賃労働(軽微な)へ出向こうとしたら単車のエンジンがセルではかからない。寒いし最近乗ってないしでバッテリーの充電不足なのはわかっていたのに。キックでかけるしかないがリアスタンドの調子が悪くて、完全に下ろしてしまうと引っかかって上がらなくなるから半分下ろした状態でペダルを踏む

スタンドまで一緒に動かしてしまわない程度の力加減で踏み込むのは難しくて、何度かキックしたらエンジンはかかったけど今度はスタンドがひっかって上がらなくなってしまった。これじゃ走れない。時間は迫る

リアスタンドの調子はもうずっと悪くて騙し騙し使っていた(最近はサイドしか使っていなかった)。スタンドが引っかかっている位置は把握していたから単車の横で地面に這いつくばって覗き込み、よくよく見て構造を頭の中で整理した

スタンドが引っかかっているパーツは「絶対に動かしてはいけない ≒ 危ない部分」ではない、とわたしは見なした。見なしたらすぐにそこをどうにかしようと動いてしまうのが私の常だがこのときは違った。ここでガチャガチャやり始めたら依頼人との待ち合わせに間に合わなくなる、と気が付くことができた

まずは同じ仕事の有資格者である連れ合いに電話して代打を頼んだ。そして工具入れからペンチを取り出し、単車のところに戻る。狙いのパーツをはさんでぐい、と軽く動かしたらスタンドの付け根部分も連動して歪みがとれ、すとん、とスタンドが上がった。ハンドルを握りセルモーターのスイッチを押す

エンジンもかかった。依頼人との待ち合わせにもギリギリ間に合う時間、急いで連れ合いに電話したらまだ自分の仕事場にいたので代打は頼まなくて済むようになったと伝え現場に向かった。たったこれだけのことだがわたしには確かに革命が起きている。「たちどまる」「よくみる」のコマンドを見つけたのだ

そんなこと、誰でも普通にやってるんじゃないの? それのどこが革命なの? と言われるかもしれないがここではこれは革命