sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

『ジドウケシゴム』のやり方はどうだったか

今日の山下さんの質問コーナーで、山下さんがここのところnoteに書いている「わたしの小説のやり方」というのを読んだ方が、読んだときによぎった(のであろう)ことを質問していた。まずは読んでもらえるとこの後の話がしやすいのでよろしくお願いします。質問コーナーはこれ↓
mond.how

この中で、質問者さんが書いてらしたこの箇所、

押し寄せて来たものをひたすら書き進めていくときは楽しくても、書くスピードよりもはるかに多く押し寄せてきてしまうと、書くのが追いつかないことはないのですか?何日かに分けて書いていくと、

ここがわからなかったので何度か読んだ。「押し寄せて来たもの」というのはきっとその直前の、山下さんのnoteからの引用文と思われるものの中の「押し寄せて来る。」からきているのだと思う。これがnoteの何回目のどこに出てきた文なのかはわからないけど、確認しないまま行ってみることにする。押し寄せて来たものを書き進めていく、というのはどういうことだろう?押し寄せて来たもの「を」書く、ということは、書かれるもの、書かれる対象?のようなものが押し寄せて来るのだろうか?確かに、そう考えてみると次の「書くスピードよりもはるかに多く押し寄せてきてしまうと、書くのが追いつかない」という箇所もなんとなく意味がわかってくる気がする。

だけど「書かれるものが押し寄せて来る」というのがわたしにはうまく想像できない。想像できないというか、そういう経験がない。

『ジドウケシゴム』のときはどうだっただろう?あれはわたしがはじめて書いた小説だけど、あれがどのようにはじまったんだったか思い出してみる。あれを書く前、原稿用紙に向かう前、いちばん最初にわたしは「1日に書く文字数を決めて、小説の断片を1年間毎日書くと決める」を、した。それをしたのは連れ合いの風呂場でのひらめきからきていて、そのひらめきについてはだいぶ前に別のところで書いていたからそれを元にしてこのブログにも新たに植え替えておいた。まずは読んでもらえるとこの後の話がしやすいのでよろしくお願いします。これです↓

sasshinoyoberu.hatenablog.com

こういうことがあって、わたしはとにかく2019年2月19日から1日に782文字分の原稿用紙のマス目を無理やりにでも埋めることになった。決めたのは自分だけど、別に決めなくてもよかったはずで、だけど書く動きがわたしのもとにあらわれて、わたしはやることになった。あの動きがなんだったのかはわからない。シャーペンを持って、無印良品のルーズリーフを使って自作した原稿用紙に向かって、わたしは書いた。

移動の日の仕事は天幕の解体からはじまる。

書くまでそれはそこにはなかったし、どこにもなかった。どこにもなかったし、全部そこに折りたたまれて含まれていた。わたしは書いた。

移動の日の仕事は天幕の解体からはじまる。

書いた途端、わたしは書かれたものを引き受けざるを得なくなった。なぜならそれは書かれてしまったからだ。猫でも、人間でも、何でもいいんだけど、産まれたての小さい生き物の世話をしなければならない状況に置かれたことのある人ならわかるんじゃないかと思うんだけど、目の前で、息を吹き込まれたものがその吹き込まれた息を絶やさずに呼吸をつづけて行こうとしている以上、わたしは動かざるを得ない。自信がないとか、情熱がないとか、そんなことを言っている場合じゃない。あの感じに似ている。子猫や赤ん坊ほどはっきりとわかりやすくそこに《いる》わけではないけど、なにかに息が吹き込まれたことはわかる。そのなにかを「場」と呼ぶのに違和感はない。少なくともわたしは。「物語の舞台」を「思いついた」とかではない。とにかく書かれたものを引き受けざるを得なくなった。

今日はここまでにしよう。お風呂に入らなきゃいけないから。