sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

『ジドウケシゴム』のやり方はどうだったか2

おととい『ジドウケシゴム』のはじまりがどんなふうだったかを思い出していて、まず最初に

移動の日の仕事は天幕の解体からはじまる

と書いたからその書かれたものを引き受けざるを得なくなった、とブログに書いたけど、2019年2月19日に自作の原稿用紙の最初の19マスを埋めたあれは「小説の断片を毎日書く」をやると決めていたから、何かは書かないとそれができないからとにかくぱっと書いただけだった。思いついた!とかよりも前にまず書いてしまった。はず。文字であらわそうとすると「移動の日の仕事は天幕の解体からはじまる」になるような何かがこっちへ向かって押し寄せて来てそれを拾いながら文字にして行ったわけではなくて、書くまではそれはどこにもなかった。書いたらそれはそこにずっとあったことになった。書いてみたらどこからかそれに息が吹き込まれて動かざるを得なくなった、たとえば川に丸太を投げ込んだら乗れそうな感じで浮いたからとりあえず乗った、とかそういうことに近い。吹き込まれた息は途絶えてしまうこともある。乗って足を動かしているうちに丸太が沈んできた場合は、それには執着せずに岸へ戻って、また別の丸太を投げ込むこともできる。シャーペンで書いているのだからケシゴムをかけて更地に戻せばいいだけだ。あのときは丸太は沈まなかった。

息が吹き込まれたな、という感じとか丸太に乗れそうだな、という感じがどこからくるのかわからないけど、確信にはほど遠いその「感じ」を拾って、まずはこれについて行ってみよう、となるのにわたしはあまりためらいがないかもしれない。何か書く人はみんなそうなんじゃないかと思うけど。「感じ」っていう言葉も少し微妙で、別の言い方が何かあるかな、と考えると「手ごたえまではいかない感触」とか?「気のせい」とほとんど紙一重な気はする。

「移動の日の仕事は天幕の解体からはじまる」と書くまではそれはどこにもなかったとさっき書いたけど、わたしがあそこであれを書いたあの動きにはそれまでのこの世とあの世のあらゆるすべてが関わっていて、中でもわたしがそこまでの《生きている》の動きの中でバッタリ遭遇して、その場でなにかがよぎったりどこかが動いたりした、その筋肉の記憶の模様がいろいろ混じって出ているのがわかる。例えば旧約聖書を声に出して読んだときの動き、トルコ帰りの人から遊牧民の話を聞いたときの動き、『ゾミア』を読んだときの動き、年末年始の予定を聞かれて「鶏がいるので何日も家を空けられないんですよ」と答えたときの動き、家の中に蜘蛛が張った巣を壊してしまうことがどうしてもできないときの動き、いつかの晩に見た夢の動き、とかそういったたくさんの筋肉の記憶がぜんぶ折りたたまれて含まれている今にわたしは常にいる。それがシャーペンを持って自作の原稿用紙に向かって今日から1年間毎日書かなきゃ、となったときにばっ、とひらいて、折りたたまれていたものがランダムに組み直されて新しく再生された。その再生の動きがあのときのわたしにあれを書かせた。でもその模様は後になって少し離れたところからしか見えない。

誰でも、たくさんの筋肉の記憶が折りたたまれて含まれている今に常にいるから、一人ひとりそれぞれのスイッチのようなものを拾ったときには再生の動きが必ずあらわれるはずで、わたしはいろんな人の、そのやり方を聞いてみたい。ベテランの、プロの、仕組みがわかってる人じゃなきゃ「やり方」の話なんかしちゃいけない、素人はすっこんでろ!みたいなことを言う人がいたとしても(いないか?)、わたしはそんなことはないと思う。みんながどんどん書いて、どんな風にはじまったかを話して、それがどんどん変わって行ったりするのがたのしい。その当たり前のたのしいを手の届かないショーケースに入れて鍵をかけてお前ら風情は遠くから眺めとけ!とか言ってくる人の言うことは聞かなくていいと思う。みんなどんどんやったらいいと思う。