sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

山下さんはジドウケシゴムを「絶賛」はしていない

CDやレコードにつける「帯」というのがあって、本にもついていることが多いあれで、むかし、だいたい20数年前くらいのわたしは「帯に載せるコメントを書いてください」と頼まれることがけっこうあって、最初はあまり何も考えずに引き受けて書いたりした。帯をつけるのはそのCDなり本なりをたくさん売りたいからで、店でその本なりCDなりを手に取った人が「おっ、」となるのが狙いだろうからそういうコメントを書いたほうがいいのだろうと考えて、なるべくいいところを探して書こうとしたりしていた。

だけどある時期からわたしは帯のコメントを頼まれてもがんばって断るようになった。どれだけ嘘のないように書いても、あとでほぼ必ず「よしのももこが絶賛!」したと書かれてしまう。わたしは頼まれなくてもこれはものすごいぞと居ても立っても居られずほめちぎったりお勧めしてしまうような動きをあらわすのに「絶賛」を使う。だから生活していてほぼ使うことがない。「絶賛◯◯中」という決まり文句を冗談のように使うことならたまにある。もしかしたら帯を書いた人がその作品を「絶賛」したのだ、と言っちゃう人も単なる決まり文句や冗談の一種として言ってるだけなのかもしれない、というかたぶんそうなんだろう。でもわたしは冗談で帯を書いてはいないから「絶賛」は嘘になる。嘘になるのが嫌だから全部断ることにした。

なんでこんなことを書いているかというと昨日、わたしの書いたジドウケシゴムという小説が「山下澄人さんに絶賛された」と説明されている場面に遭遇したからで、山下さんはあれを読んでおもしろかったと言ってくれたけど「絶賛」はしていない。紹介文を書いてくださったけど、あれはわたしが書いてくださいと頼んだ。頼まなければ山下さんはあれを書いていない。自主制作の弱点なんだけど、書く動きの中にいたわたしだけにはあの小説を紹介・宣伝することが絶対にできなかった。だから誰かに頼む必要があった。この小説を読むときに、読んだ山下さんの身に起こることについて書いてもらえませんか、よしのももこのことも、ジドウケシゴムのことも全く知らない人が想像するきっかけになるような短い文章を書いてもらえませんか、と依頼した。「ほめられ」なくても「お勧めされ」なくてもぜんぜん構わない。山下さんはわたしのその依頼に応えてくださった。

あれが送られてきて読んだとき、わたしはお勝手で夕飯の支度をしていたのだけど、うわすっごい、と、喉がグゥと鳴るような思いがした。わたしは今すごいものを読んだ、とちょっと涙が出た。あの宣伝文を通しで読んでいたら「山下さんが絶賛」という要約には絶対にならない。まったく煽っていない。そして嘘がない。あれは本当にすごい文で、どこか1か所だけを抜き出して使うことがどうやってもできないんです。嘘だと思うなら実際にやってみたらわかります。抜粋ぜったいにできないから全文載せるしかないんです。

これだけ長々と書いといて今さらあれなんだけど、このことをどう書けばいいのか本当にわからない。書かずにはいられないからとりあえず書いた。山下さんはジドウケシゴムを絶賛はしていない。ご本人に聞いたらどっちでもいいですよと言われるかもしれないけどあれはやっぱり「絶賛」なんかじゃない。あえて書くなら「すごい紹介文で応える」をしてくださった。