sasshinoyoberu’s blog

よしのももこ&冊子のヨベル

「表紙」と「カバー」

『土民生活流動体書簡集(一)バックレ可(笑)』について、歌い手の東郷清丸さんが「アートワークとともに携帯できるのがありがたい」と書いていた。少し前の話。清丸さんは本のカバーは買ってすぐに外してしまうのだそうだ。わたしの今回の本はもともとカバーがかかっていないペーパーバックと呼ばれる無線綴じの本だから、綴じられた紙の束の中でいちばん表に見えている紙が「表紙」で、その文字通りの「表紙」にmoineauさんのかっこいい版画をプリントしてある。せっかく版画なのだから1冊1冊手摺りがベストなのだけど、今回の本は手づくり同人誌・機関誌の類ではなく装画を人にお願いするのだからさすがに手摺りは手間が膨大すぎるので印刷機械に複製してもらうことにした、とはいえ複製でも十分すぎるほど迫力のある表紙になっている。この表紙をそのまま携帯できるというのは清丸さんのおっしゃる通り非常にいけている。

本のカバーを外さない派の方々は気づいてらっしゃらないかもしれないけど、いま世の中に出回っている本の「表紙」はなかなかにショボい。ショボくないものもあるけどショボいものが多い。試しに家の本棚から何冊か抜き取ってカバーを剥ぎ取ってみるといいです。凝りに凝ったカバーとの落差がすごい。なんか、わびさび、みたいな(笑)。別にショボいのが悪いと言っているわけじゃなくてむしろそこが魅力的であったりもするのだけど、カバーと比べると手抜き感は否めない。おそらくいま出回っている本をつくっている人にとっての「表紙」はカバーのことなんだろう。だからカバーの上からさらに帯を巻いたりするし、最近だと判型のタテ半分くらいを覆い隠すような帯とか、ひどいのだと全面帯なんていうばかげたものまである。重ね着か。過剰包装もいいとこだ。

売り物の本にカバーをかけたくなる理由はなんとなくわかる。表紙が剥き出しの状態で棚の隣の本との隙間に入れようとすると引っかかって折れたりする。カバーがかかっていれば滑りがよくなってスルッと入る。たいていのカバーがつるつるの紙質でできているのはたぶんそのためだ。汚れたりヤケたりしたときもカバーがかかっていれば表紙は無事だから、カバーだけかけ替えればそのまままた売り物にできる。わたしが1月にリリースした『ジドウケシゴム』もペーパーバックだったので折れや汚れには弱い。島で駄菓子屋をしている友達が仕入れて売ってくれたのだけど、彼女はその弱点を文字通り「カバー」しようと思い立ち、クッキーとか焼くときのオーブンペーパーみたいな透ける紙を用意して自発的にカバーを手づくりしてかけてくれていた。それを見たときわたしはほんとに嬉しかったし、これでいいじゃんと思った。